2017年度大会「「1968年」を測り直す ― 運動と社会の連関、その歴史的射程」

2017年12月9日(土)
13:30~受付開始
14:30~16:30国立歴史民俗博物館企画展示「「1968年」―無数の問いの噴出の時代―」展示見学
16:30~17:20展示評・意見交換
17:30~19:30懇親会
2017年12月10日(日)
9:30~受付開始
10:00~10:30総会
10:40~12:40自由論題報告
13:30~17:00全体会
会場
国立歴史民俗博物館(最寄り駅:京成電鉄 京成佐倉駅)
全体会:「「1968年」を測り直す-運動と社会の連関、その歴史的射程」(13:30~)
  • 安藤丈将(武蔵大学准教授)「警察とニューレフトの「1968年」:運動のポリシングとその遺産」
  • 菊池信輝(都留文科大学准教授)「日本型新自由主義と社会運動」
自由論題報告(10:40~)
  • 鈴木裕貴「旧軍港都呉から見る「ヒロシマ」:1952-1960年の地方紙『中国日報』を手がかりに」
  • 山本潤子「歴史認識としての「中国殉難烈士慰霊之碑」:花矢町長山本常松と遺骨送還事業」
  • 船津かおり「「袴田事件」における冤罪被害者への救援運動:1970年代後半~1980年代を中心に」
  • 西原彰一「沖縄近現代史における〈なまえ〉について:「改姓」「改名」をめぐって」
資料代
500円
交通アクセス https://www.rekihaku.ac.jp/information/access.html
※京成佐倉駅から徒歩15分程度です。最後は上り坂になります。坂の上まで上るバスは、下記の通りです(土・日ダイヤ)。
 京成佐倉駅(南口)発 8:17 9:30 10:16 11:14 11:30 11:56 12:52 13:47 14:32 14:56 所要時間約5分
 JR佐倉駅(北口)発 8:08 9:21 10:07 11:05 11:21 11:47 12:42 13:37 14:22 14:46 所要時間約15分
 いずれも田町車庫行。「国立歴史民俗博物館」下車。なお、「国立博物館入口」は坂の下の停留所になります。
※京成佐倉駅から歴博までタクシーをご利用の場合、通常は基本料金で到着します。

趣旨文

 「1968年」に象徴される「若者たちの反乱」については、近年、その国際的な共時性がますます注目されている。共時性の背景には、ベビー・ブーマーたちの存在、工業化の進展による労働現場での疎外、大衆消費社会の成立、大規模な人口移動によるコミュニティの変質といった(第二次世界大戦後の)「戦後」的要因があった。したがって、その範囲は日本を含むいわゆる西側先進諸国だけでなく、冷戦の壁を越えて東側にも、さらにはアジア・アフリカ・ラテンアメリカにも及んでいた(油井大三郎編『越境する1960年代』彩流社、2012年、西田慎・梅崎透編『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』ミネルヴァ書房、2015年、等)。

 もちろん、そのような世界各地の運動は、ほとんどが「失敗」したとされていることも共通している。だが「失敗」とはいえ、緑の党を生むに至ったドイツや、ベトナム戦争への徴兵を忌避したクリントン、非白人のオバマを大統領として輩出した米国など、欧米諸国では運動の積極的意義が制度的に定着したこともあり、「1968年」の歴史的位置づけをめぐっては豊富な研究蓄積がある。

 これに対して日本では、一部の先鋭化した運動の自壊作用が強調され、若者たちの運動は否定的に評価される傾向が根強い。だが同時期には他方で、住民運動・市民運動と呼ばれる多様な運動が簇生し、地域社会に少なくない影響を与えてきた。このように分岐する諸現象について、その背後にある社会変動も含めた包括的な説明は、なお充分とは言えない。

 社会運動を正面に据えた荒川章二氏による戦後史通史(『豊かさへの渇望』小学館、2009年)や、小熊英二氏の浩瀚な『1968』(新曜社、2009年)などが著された後も、1960年代後半の諸運動に関する学問的・実証的な検討は依然低調であり、目立った機運はない。また政権交代という明確な成果が得られず、自民党一党支配が継続したことにも規定されて、社会体制の変容と諸運動との連関をめぐる説得的な語りは生み出されていない。とりわけ日本では、当時の諸運動が大衆消費社会や組織資本主義の確立に対抗する文化的な質を(他地域と同様に)持っていたにもかかわらず、全体としては企業間競争と労働者間競争を基礎とする「企業社会」に収斂してしまったことの意味を考えなければならない。この点は、当時の運動が有する積極的な側面に着目してきた欧米諸国の研究動向にも、近年、大きな変化が見られることとも関連する。

 このような動向をふまえるならば、60年代後半の運動とその思潮が70年代以降の社会変動をどのように規定したのか。変動のなかで提起され、実現された/され損ねた課題を問い直す必要がある。この「実現」のなかには、運動主体の営みのみならず、「反乱」に対抗して生じた右派・保守の運動や、国家・企業の編成替えそのものも含めて考えねばならない。その際、当時の運動が志向した反国家主義や、労働市場における人種や性別の平等を求めた動きが、その後の世界を席巻する「新自由主義」といかなる関係を取り結んだのかを問うような、射程の長い視角も必要となる。“68年以後”を見据えて、あの運動をマクロな連関に位置づける試み、いわば「1968年」が有する歴史的射程の測り直しが求められているといえよう。

 そこで本年度大会では、「1968年」にひとつの焦点を結ぶ多様な運動が、日本社会に与えた影響とその歴史的位置づけについて、あらためて議論してみたい。

 第一に、1968~69年の諸運動がその後の社会変容に与えた作用について、今日の視点に立った再検討を進めたい。安藤丈将氏は、著書『ニューレフト運動と市民社会:「六〇年代」の思想のゆくえ』(世界思想社、2013年)において、世界的な連関を有するニューレフト運動の本質を「生き方の見直し」と捉える。ではそのような運動は、70年代以降の日本社会にいかなる影響を及ぼしたのか。安藤氏には、国家の対応の変化、具体的には警察と運動との攻防を軸にして、運動から生まれた「遺産」についてご報告いただく。

 第二に、今日、国際社会で依然として強力なイデオロギーたる新自由主義と、1968~69年の運動の関係を問うてみたい。菊池信輝氏は、著書『日本型新自由主義とは何か:占領期改革からアベノミクスまで』(岩波書店、2016年)において、日本の新自由主義の特徴を、革新陣営まで含めた反国家主義・反介入主義の広範な存在に求めている。菊池氏にはそのような視点から、ニューレフト運動を中心とする当時の社会運動と新自由主義との関係について、あらためて整理してもらうことで、問題提起をいただく。

 無論、今回の主題であれば、関連する文化面での変容や地域ごとの差異、国際的な連関など、多様な論点がありうる。今回の大会は、さしあたりそのような広がりをもつ議論の出発点と位置づけたい。本年度の大会がそのような試みの始まりとなるよう、当日の活発な議論を期待したい。

自由論題報告者・報告要旨(応募順)

名前:
鈴木裕貴
所属:
京都大学大学院 人間・環境学研究科 修士課程
報告題:
旧軍港都呉から見る「ヒロシマ」:1952-1960年の地方紙『中国日報』を手がかりに
要旨:
 1945年8月6日広島市の上空に投下された原子爆弾とその惨禍は、戦後社会のあらゆる場面で想起され、それを語ることが同時代の平和運動や復興の在り方を再検討する意味を有していた。「ヒロシマ」とも言表されるこの理念は、とりわけ1950年代に入り、平和公園の整備などと相まって高まりを見せたが、同時期、広島市に隣接する呉市では、再軍備の影響をうけ海上自衛隊や国連軍の基地を抱えていた。一方では平和公園が整備され、他方では自衛隊基地が整備されるという復興の偏差は、従来の研究では見落とされてきたものである。
 本報告では、1950年代の呉市内で流通した地方紙『中国日報』における原爆報道に着目し、そこで広島市との距離感がいかに意識されていたか明らかにする。それを通して、この時期の「ヒロシマ」が抱え込んだ矛盾、つまり、平和や核廃絶を主張しつつも、そこには再軍備や外国軍基地の問題が看過されていたことを、批判的にとらえ返していく。
名前:
山本潤子
所属:
大阪大学大学院文学研究科 後期博士課程
報告題:
歴史認識としての「中国殉難烈士慰霊之碑」:花矢町長山本常松と遺骨送還事業
要旨:
 アジア・太平洋戦争末期、日本国内の鉱山、土木建築、港湾荷役など135事業場に約4万人の中国人が大陸から連行された。過酷な労働、虐待、食糧不足などで約7千人が犠牲となった。特に、同和鉱業花岡鉱山があった秋田県花岡町(現大館市)の鹿島組(現鹿島)工事現場で中国人が蜂起、鎮圧過程も含めて多数が犠牲になった「花岡事件」は、中国人強制連行の内実の過酷さを象徴する歴史事実として知られる。本報告では、朝鮮戦争からその後にかけての1950年代の東アジア冷戦期、中国人遺骨の発掘、慰霊、送還を実施した「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」(慰霊実委)の要請を契機に花岡地区に建立された「中国殉難烈士慰霊之碑」に焦点をあて、戦争加害についての歴史認識の形成過程を検討。建立を決断した地元花矢町長山本常松(1893~1973年)と政府、企業、慰霊実委など複数の主体との交渉過程を分析、建立を支えた歴史認識の形成をその未発の契機も含めて考察する。
名前:
船津かおり
所属:
立教大学 共生社会研究センター 研究員
報告題:
「袴田事件」における冤罪被害者への救援運動:1970年代後半~1980年代を中心に
要旨:
 「冤罪」であると世の中に広く認知されている事件において、その事件そのものを検証し冤罪を告発する著作等は多いが、冤罪被害者を救済しようとした人々の具体的諸相を歴史的に明らかにした研究は少ない。国家権力から弾圧されている人を救うために行動する人々の運動を、国家権力との関わりから問い、その多様な人権擁護の営みを歴史に位置づけていくことは重要な課題である。
 本報告では、1966年に静岡県で発生した「袴田事件」を事例とし、家族・知人以外の、広く冤罪被害者の救援を目的とした団体による救援運動が始まる1970年代後半から、「袴田巌を救う」という一点で集まった多様な人々による運動が始まる1980年代を中心に扱う。主に『ラジコン通信』『袴田通信』(共に立教大学共生社会研究センター所蔵)などの救援運動に関係する諸団体の会報や当事者からの聞き取り調査を通じて、救援運動の歴史的意義を実証的に明らかにしたい。
名前:
西原彰一
所属:
総合研究大学院大学 文化科学研究科日本歴史研究専攻 博士後期課程
報告題:
沖縄近現代史における〈なまえ〉について:「改姓」「改名」をめぐって名前
要旨:
 沖縄の〈なまえ〉(人名)は、1879年以後、現代に至るまで、程度の差はあれ常に「改姓」「改名」と向き合って来たといえる。それは、琉球併合に伴う社会制度としての〈なまえ〉の根こそぎの改変であり、帝国たる日本への統合の象徴としての「改姓」であり、差別への身構としての自発的「改姓」「改名」であった。しかしそれは、女学生、出稼女工にとっては個のレベルにおける「近代」への接近としての「改名」であったことも、また否定できない。本発表では、こうした〈なまえ〉を視点とする琉球/沖縄の歴史を、戦前の「改姓」「改名」、敗戦後の「改姓ブーム」、その揺れ戻しとしての80年代の「復姓ブーム」等から構成することを試みる。発表の大まかな構成としては、1)琉球/沖縄の〈なまえ〉の概略、2)1880年から戦前期の「改姓」「改名」、3)敗戦後の「改姓ブーム」、揺れ戻しとしての「復姓ブーム」、4)今後の課題、展望とする。